宗教アレルギー
私は、カトリックの母のもとに生まれたけれど、母が結婚したのは、宗教嫌いの父で、父は母の信仰を抑圧した。
激しい夫婦喧嘩の中で、父はいつも母の宗教のことを持ち出した。
うちの中では、目に見えないものを信頼することは、完全にタブーだった。
とはいえ、受験の時に筆箱の中にそっと小さなマリア様の絵を入れてくれたり、何かの折に神父様のところに連れていかれたり、
幼い私に、
「愛には種類があるんだよ。その中でもアガぺ、と言う深い深い愛があるの。」
と教えてくれたり、小さい私が受け取れるような形で母さんのルーツである信仰を表してくれていたのかもしれないな、とも感じている。
兄の死後、母は再び信仰に深く還る時期があり、一時期は教会にも足しげく通っていたけれど、海外に住んでいた父がコロナ以降日本で暮らすようになったのもあり、再び教会から足が遠のいた。
2023年の終わりから、私自身が生まれた家族の中で抱えた自分自身の痛みを癒す旅を歩む中で、母をのルーツを知りたい、理解したいという思いが自然に芽生えた。
2024年ころから少しずつ、聖書を読み始め、母と信仰についての話もする中で、私が否定し、知ろうとしてこなかった、母の美しい、深く強い愛の一面に触れるようになった。
そんな中で、今、母の一番深いところは祈りの日々、カトリック信仰に戻りたいのではないか、と感じるようになった。
母さんが信仰に還るのを手伝うことは、私にとってとても自然な流れで、それは父を大切にしないことでもないのだ、というのも、力みなく、自分の中で腑に落ちたんだと思う。
私にとっては、父さんの幸せも、母さんの幸せも、どっちも大切。
何てシンプル!

黙想会
話は前後するのだけれど、2週間ほど前、私はカトリックの黙想会という祈りの会に参加してきた。
これは母のためではなく、自分のために深く祈りたいと思ったから。
会の始めに、神父様がお話をしてくれた。
「私は必ず、あなたとともにいる」という聖書の中のことば。
神が共にいて下さる、という中に安心、平和がある。
神は無条件の愛であるということ。
愛した分、愛し返してくれるような、そんな取引の愛ではない。
いいことをしたから、愛を還してくれるような、そんな天秤もない。
なんの掛値もない愛なのだと。
父より2.3歳上だろう、80代のおじいちゃま神父様が、愛やその安心感について柔らかい口調で話してくれるのを聴きながら、神父様の内側に活き活きと生きている少年を感じ、心が震えていた。
祈り
静かなお御堂で祈りの中に入ると、涙が溢れて止まらなくなった。
ずっと理解されようと努力してきた。
私の思い。私が大切にしたいこと。私が創りたい、見たい世界。
だけど、すでに、理解されていた。すべてをわかられていた。
なぜだかそれが腑に落ちる。
目を閉じ、自分の内側の静かなところに降りていき、深く感じ取れる安心感。
見守られていただけじゃない。
全部理解されていたんだ。

再びキリスト教アレルギーについて
宗教、特にキリスト教は自分には親和性はないと、20代まではずっと感じてきた。(中学、高校もプロテスタントの学校だったけど、礼拝も聖書の授業も全部寝てた!)
罪とか、ゆるしとか、善とか悪とか、2元的な世界だと切り捨ててきた。
キリスト教のために、痛みを負った人が世界にどれほどに多いことか。
自分の人生は自分の力で何とかするしかないじゃないか!
知ろうともせずにそうやって否定してきた。
けれど、癒しの旅の中で自分の傲慢さに出逢い、さまざまな本を読んだり、母と話したりする中で、キリスト教は必ずしも、私が思っていた善悪2元の世界ではないのかもしれないとわかってきた。
ただ、ありのままのあなたがすでに愛の存在なのだと、完全に受容する世界観を理解しようとする入り口に、今立っている感覚がある。

かみさまの働きは人を通してあらわれるということ
黙想会では、祈りの同伴者、という共に歩いてくださる信者の方がいる。
信者でない私が、今、こうして聖書の言葉に触れたり、祈りの集いに参加することになったのは、母の影響だということを話しているとき、「神様がお母さんを通して働きかけてくれたんですね」と教えて下さった。
「神さまは、そうして、人の行いや、言葉を通して働かれるんですよ。」と。
昔誰かに言われたら、鼻をつまんで、全力で否定して、走って逃げそうな言葉だけど、その時はすとんと受け取った。
それから、全てを理解されていた、という祈りの体験を話しているとき、
「神様がもえさんに、触れられたんですね。」と。
私が使うことがなかった、
神さま、ということば。
神さまに触れられる、ということば。
かみさまの働き、かみさまの恵み。
そこここで、当たり前に使われる、愛ということば。
肩の力が抜けていく。ひょうしぬけ、というような感じかも。なんの力みも必要ない。
そして昨日、私は、母さんを連れて、もう一度祈りの場に行った。
続く




