【境界線】と【すべてはひとつ】について

2023.2024年、私は由佐美加子さん(みぃちゃん)が開発した、ザ・メンタルモデルのプロセスにいた。

その旅路で起きた、癒しや解放はあちこちで話してるけれど、父との関係の変化はあまりにも大きかった。

 

ブログ 父とのこと

メンタルモデルのジャーニーのあと、みぃちゃんの世界とつながり続けたくて、Authentic Leadership(通称AL)でもう一度NVCを学び直し「聴く」という概念が丸ごと書き換わるような時間を過ごした。

ALのことは、またどこかで書きたいのだけれど、

今日私が考えたいのは「境界線」と「すべてはひとつ」について。

 

同時に存在するにはあまりにも矛盾しているようなこの二つ。

私がずっと探求してきたテーマのような気もしてる。

【境界線】について

幼いころに体験した性的な痛みは、確実に私の人生に大きなインパクトを与えた。

性的な痛み ブログ

 

幼い、まだ境界線の認識が曖昧な時に、ぬるりと身体を侵害された(させた)痛みの体験。

その体験から、私は長年性教育に取り組んできたし、今もなお、自分の身体的な境界線にとても敏感でいる。

(詳細は上に張り付けた過去記事を読んでください)

触れられることが平気なときもあれば、心の準備がない状態で身体に触れられると、とてもつらい。

人混みは超苦手。

万が一触れられたのがお尻や胸だったりしたら、その時は固まり、あとで、怒りと情けなさと恥の感覚がずーっと抜けなくて苦しむことになる。

だけれど、この境界線は流動的でもあって、自分自身の状態や、相手によっても日々変化する。

 

私にとって触れる、触れられるは意志の行為

そこに私と相手、双方の意志がなければ、暴力だと感じることすらある。

 

「境界線」という概念が曖昧になると、無意識に支配関係や依存関係が起こる。

性暴力も、パートナーや家庭内でのDVも、親子関係のいびつさも、組織でのパワハラ等の問題も、境界線という感覚の未熟さから始まるのかもしれない。

かたや【すべてはひとつ】について

6年くらい前だろうか。セクシュアリティについて熱心に発信したり、「満たされるセックス」というイベントを開催したりしていた。

そこで行き着いた私のひとつの答えは

「満たされる」という体験の本質は【境界線の消失】だということ。

【すべてはひとつ】

 

自他の分離が消え、私はあなたで、あなたは私。

私が感じていることをあなたが感じ、あなたが感じていることを私が感じている、言葉だけではない、その時間と空間の交わり。

 

この「満たされる」感覚は、何もセックスでしかで得られないものじゃない。

愛する人と抱き合うこと、子どもたちへのまなざし、自然の中を歩き、呼吸すること。肌をなぜる風。

 

感覚が研ぎ澄まされ、地球とひとつ、宇宙とひとつ、空間とひとつ、生きとし生けるものとのつながりを感じるとき。自分自身の命のひろがりを感じる。

呼吸の循環。心臓の拍動。

ブレスワークでも。

 

私たちはこの「すべてはひとつ」の感覚に触れることができる。

その中で生かされている、このいのちに満ち足りていく。

   

つまり私には明確な境界線のニーズも、すべてはひとつ(ワンネス)のニーズもどちらもがある。

 

ALの最後、みぃちゃんに質問した。

「マーシャル(ローゼンバーグ)はなぜ、境界線をニーズの一覧に入れなかったの?」

きっと、そこには意図があるはず。

 

みいちゃんが教えてくれたのは、「境界線」はニーズではなくストラテジーだということ

そしてきっとその奥には、自立や尊重のニーズがあると。(たぶん肉体の安全性とかも)

 

だけど同時に、分離された個でありながらひとつ、をどう両立させていくか、それが人間の大きなテーマでもある、と教えてくれた(私はそう受け取った)

 

今、私が思い出していること

今、世界には全体性に還ろうという流れと、

個としての発展、達成を追い求めようという二つの大きな流れがあるなかで、私は問い直す。

わたしはどう生きたいの?

私はどう在りたいの?

 

 

境界線とすべてはひとつ。

この問いが、きっと次の扉につながっている。