出会いと別れについて徒然なるままに

人には一人で行ける深みがある。

同時に、人との関係性によって、自分自身の輪郭が形どられてきたような感覚も持っている。

 

誰かと出逢い、ことばを交わす。

その中で、私は本当には何を望んでいるのか、

何を喜び、何に傷つき、何を怖れているのか、

自分の内側の感覚の濃淡は、人との関係性の中で、感じ取ってきたのだと思う(かつては無意識に。そしてだんだんと意識的に)

 

心地いいと思える出会いも、一見コンフリクトのように思える、痛みを伴う別れも、時には、どこか取引きのようになってしまった関係も。

傷つけあい、対立し、そこから時間をかけ修復した関係も。

 

未熟で、本当は自然の流れに反していたかもしれない、「強がり」や「卑屈さ」さえ、今振り返れば、「わかりたい」「わかられたい」「必要とされたい」という必死のやりとりで、その奥にある、自分自身に出逢っていくために必要な、ご縁だったのだと思う。

 

生きてきた過程で、一見「切れてしまった」ように感じるご縁もある。

けれどそれすら、命の流れの中の必然だった。

そしてまた、出逢うべき人とは、出逢うべき時に、最良のタイミングで再び出逢うこともあるだろう。

 

その時々で、お互いに満たす必要があった、課題や、学びや役割がある。

それがひとつ終われば、また自然な流れの中で、離れていくこともある。

 

以前はそれを「切れた」と捉え、痛みが伴い、何か理由を探してみたり、つなぎとめようと必死の努力をしてみたり。

分離をとても怖れていたのだと思う。それは執着になった。エネルギーが通らない。

 

今、なんとなく腑に落ちてきたのは、無理につなぎとめなくても、その瞬間、命と命が触れあった。

それだけでいいのだということ。

なんの抵抗もいらないのだ。握りしめる必要もない。

 

私たちは往々にして、傷つけることを怖れ、分離を怖れ、波風をたてず、表現を調整し、「いいひと」や「できるひと」をふるまう。

けれどどれだけ外側を整えても、自分の命から離れれば、無理が生じ、どこかにゆがみがでるものだ。

 

本当のつながり、ありのままのつながりがほしければ、自分自身の今この瞬間の命にどれだけ誠実であるか。

それだけを磨いていくことしかないのだと思う。

 

自分の本当の感覚、感情、揺れ、怖さ、願い、そういったものを、何の装飾もなくそのままに感じること。

それを持つ、自分自身を許し、自分の命に自分自身がどれだけ誠実であるか、それしか人への誠実さは存在しないのだと思う。

 

私はまだまだ未熟で不器用だ。

これからだって、一見傷つけあうこともあるのかもしれない。

 

だけど、

あぁ本当に、命の流れは完璧なのだと、信頼して生きて生きたいのだ。

 

コントロールではなく、執着でもなく、怖れからにぎりしめるのでもない。

随分と戦ってきたけれど、そう生きたいという願いと、そう生きようという意志に還っている、ここに立ち、どこかほっとしている今があることに感謝。