兄の死から、ずっと生きることや死ぬことについて考えていて、いつからか、それを表現したいと願ってた。だけどテーマがあまりにも壮大すぎて、全然まとまらなくて、書いては消し、書いては消し、何度も繰り返している。だからもうまとまらないままに、出してしまおうと思う。
考えてみれば、生と死をうまくまとめようなんてこと自体、おこがましいのだから、断片的なままに、私の体験をつなぎあわせてみよう。
すべての命は、うまれたその瞬間から、すでに死を内包しているのに、私たちは死を恐れ、なるだけ死なないように注意深く生きているし、できれば「死」なんてないことにしたいと願う。
私にとって最も怖いのは、愛する者の「死」かもしれない。
今日から、次女と末っ子、夫が夏休みを夫の実家で過ごすために大阪に向かったのだけれど、心のどこかに、これが永遠の別れになることを恐れている私がいる。彼らがいなくなったら、この世界でどうやって生きていったらいいのか、私は途方に暮れてしまうだろう。
子どもたちや夫との別れは、想像するだけで息ができないくらいに苦しくなる。
だけれど、同時に命のことは天に委ねるしかないという悲しさも、私の中にある。
恐れたって、怒ったって、拒否したって、どうあがいたところで、生と死は私のちっぽけな力ではどうにもならないから。
私にも、私の愛する人たちにも、いずれ「死」は訪れる。
肉体の死は絶対的だ。
どんなに悲しんで、泣き叫んで、抵抗しても、もう二度と声を聴いたり、触れあったりすることはできないことを兄の死によって知った。
愛する者の死によって、人は絶望し、感情の濁流や虚脱に飲み込まれ、そしてその死を内包しながら、再び今生を生き始めるときがくる。
兄の死は深い深い痛みの記憶。思い出すことは痛みと悲しみを伴うけれど、一方で、今、生きている私がどうありたいか、何を大切にし、何を表現し、どう生きたいのかに立ち返る。
本当の意味では肉体の「死」はいのちの終わりを意味しないのだと思う。
私は母から生まれ、そしていつか死んでいく。
子どもたちは私から生まれ、そしていつか死んでいく。
長い陣痛を経て長女が私の身体から生まれた時、あぁこうして人は生まれ、いつか死ぬときは、ただ還っていくようなものなのだろうと身体で腑に落ちた感覚があった。
その後助産師になり、沢山の命が生まれるところをに立ち会い、また死に向かう何人もの人を見送った中で、ある意味、私の命は生と死に癒されてきたような気がする。
ここのところはまだうまく表現できない。
出産はまだしも「死」に癒されるなんて、そんな感覚は普通じゃないのかもしれない。
死と生が、当たり前にそこにあることに抵抗を手放すしかない、とでもいうのかな。
私が見ている命の話、生と死の話をしようと思う。
私を癒してきたお産と死の話。
まずは私自身の出産から。
続く