ここのところ、ずっと不本意だった、私が引き起こすことがある影響力や圧について考えてる。
みぃちゃんのライフパーパスコーチングを24日に受けて、とても印象に残っているのは、鶴の恩返しの話。
みぃちゃんが血を流しながら、自分の羽をぬいて、目の前の命の癒しのために、突き動かされていたこと。
そして今、私が感じているのは、「私は血を流したくないんだ」ということ。
自分の羽を抜かなくていい、安全な場所から、人にかかわっているのだということ。
マザーテレサやキング牧師やガンジーだって、血を流していたのではないだろうか。
世界に影響するということは、圧になり、人々の反応を引き起こすということだ。
それはとてつもなく怖いはずなのだけれど、その奥にある真実を信じぬいていたからこそ、意志の力で怖れを超えて、立ち続けた。
羽を抜く覚悟があった。
それがパワーを使うということで、その人の光を唯一無二のものにしているのだと思った。
自分の血が流れたとしても、それでも命を信じる。
力を持つものとして、その力を人のために使っているということ。
自分のエゴのためじゃなくて、他の者の命の輝きのために使っているということ。
私が、その時々で、自分の圧が怖かったり、嬉しかったりするのは、立っている場所、起点が根本的に違うと、やっと気づいた。
わたしは私が気持ちよくなるためにやっていたんだと思った。(自覚はなかったけど)
目の前の命のために使っているパワーじゃなかった。
目の前の命に向き合ってます風。
でも実際はエゴのため。
それは、みいちゃんが教えてくれた、自己愛じゃない。
自己愛はもっとゆるぎない愛だ。
目の前の命を信じるという意志をもった自分自身を信じる愛だ。
パワーを使えば、影響する。反応をおこす。
それは当たり前じゃないか。
影響したいのなら。
世界を揺り動かしたいのなら、自分の圧が不本意とか言ってる場合じゃないじゃないか。
それが、ポジティブな(すごい!とか素晴らしかった!とか)影響だったら嬉しくて、なんか嫌なものを刺激されたとか、何これ?とかだとしっぽ巻いてにげたくなったり、心地よいところに何となく着地させときたくなる。
私が私の圧に苦しくなるのは、パワーを使う起点が、自分の価値を世界に認めてほしいという、つまり自分のためでしかないからだ。
人を受け取れば、影響は起こる。人に話せば影響は起こる。
人と関わるということは、
人に関わりたいということはそういうことじゃないか。
つながりたいとはそういうことじゃないか。
そのすべての影響を、受けて立つこと。
そして、自分のためじゃなくて、目の前の命の輝きのために、本当に私が信じることを表現する意志。
人と分離している場合じゃない。
それがたとえ、今この瞬間の快につながらなかったとしても。
その不快は、わたしが、
目の前の命が、より深いエネルギーを感じるためのドアとなる。
みいちゃんは、今でも血を流している様に見えるときがある。
わざと反応をおこして、気づきなよ!ってやってる。
それはみいちゃんだって、痛いはずなんだ。だけど目の前のその人の命のためにやってる。
そして、その時、みいちゃんも、ともに血を流す覚悟があるのだと思う。
ちゃんと私を生きよう。
覚悟を決めよう。
自分の癒しはもう十分にした。
自分が安全な場所にいるのではなくて、そこから出て、自分のパワーを人のために使う時だ。
自分が好きなものだけを取り揃えた、美しくて、きれいで、深い、安全な世界にとどまってる場合じゃない。
形はわからない。
土星のエネルギーの使い方は、超未知。
使ったことがないから。
でも
わたしの潜在的な見えないエネルギー、隠してきた力なら、きっと再会することもできるはず。
私が私をあきらめたら、そこでおしまいだ。
泥臭く、やってみよう。たぶん。
心地よくある方が楽だけど。
なぁなぁ、そこそこで生きることもできるはずだけど。
多分それじゃない。
私がほしいのは、それじゃない。
父さんは、土星なんだろうな。私はそれを抑圧した。
父さんの力を、受け継いで、使うことができるはず。
怒りから支配するパワーではなく、愛を起点に幸せを信じる力へと変化させることができるはず。
世代を超えて自由になろう。
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