2.3日前、2歳の末っ子が自転車に轢かれる、という交通事故にあいました。
相手方の自転車のスピードがでていなかったのが幸いし、大事には至りませんでしたのでご心配しないでくださいね。
あぶない!と思った瞬間には小さな身体が私の目の前で飛び上がり、地面にたたきつけられていました。
ドラマのようにスローモーションで再生され、
その瞬間、何もできない自分自身の無力感に全身が締め付けられました。
愛するものを失うかもしれないという恐怖は、何よりも痛みを伴い、言葉ではとても表現しきれない体感覚です。
生まれた以上、人は誰でも「死」を迎えます。
自分にも、大切な人たちにも、いつとは知れぬ将来に「死」は必ずやってくるものです。
私が23歳の時に初めて自分にとって大切な人が、急に亡くなってから「死」というものが、はるか彼方、自分とは全く関係ないところにある得体のしれないものではなくなったと思っていました。
今は今しかない。
過去や未来が当たり前に、そこにあるように感じているけれど、明日が明日としてやってくるの保証はどこにもありません。
誰もが知っているのに、すぐに忘れてしまうこと。
末っ子の事故はそのことを私に強烈に思い出させてくれる出来事となりました。
いつかやろう、いつか伝えよう、いつか行こう。その「いつか」ほどあやふやなものはありません。
だからこそ、今生を生きている「今」、たくさんの気持ちを伝えあいたいと思います。
今生を生きている「今」、私は私をもっともっと知りたいと思います。
今生を生きている「今」、私はもっともっと感じ、体験し、私を生き切りたいと思います。
優しく生きたいなら、「今」優しく生きることを選択しようと思います。
愛に還りたいなら、「今」愛に還ることを選ぼうと思います。
そして私は私の命を表現したいし、できることなら響きあいたい。
人と関わることは、時に煩わしいし逃げ出したくなることもある。
けれど、人の気持ちに触れる、寄り添う、共感しあう、響き合うことにこそ本当は、この肉体を持って生きる喜びの本質があるんじゃないかと思うのです。
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31歳で助産師になってから、配属された産婦人科病棟で、何人もの女性の死に出会いました。
出会った方たちそれぞれが、私の知らない人生を生き、私の知らない誰かの大切な人で、私たち看護者、医療者はそのほんの一部を病室という閉鎖された空団で垣間見ているだけでした。
死を目前にした濃密な時間の中で、その方が語るコトバ、ベッドサイドに置かれているモノたちから、その人の人生を想像し、その人の心に触れたように感じたとき、深い悲しみを感じたり、深く感動する場面がいくつもありました。
医師も看護師も、時に(というか、あまりにも多くの時を)自分の時間を削ってケアにあたりますが、体力や気力の限界を超えてそれができるのも、人の純粋な気持ちに触れる、寄り添うということに人間としての喜びの本質があるからではないかと思います。
(とはいえ、特に大病院の医療スタッフにはあまりにも大きなプレッシャーの中、心を病んでもおかしくないくらい、あまりにも過重に時間的、体力的、気力的な負担がかかっていると思います。患者さんに寄り添いたいのにあまりにも忙しく、あまりにも時間がなく、あまりにも負担が大きく寄り添うことができない、というのは多くの医療者のストレスになっているし、医療者にはもっともっと時間的な余裕が必要です。)
助産師として、お腹の中でなくなる命や、生まれてしばらくしてから亡くなる命に出会うこともあります。
お母さんがまさしく命を懸けて生む、というような壮絶なお産にも何度か立ち会ってきました。
当たり前にあると思っている命は、本当は当たり前にあるものではなく、指の間からこぼれていくように、あまりにも儚く、あっという間に失うことがあります。
そんな時、地位とか、名誉とか、何かを成し遂げたとか、何者かになったとか、いくら稼いだとかそんなことはどうでもよく、
ただただ呼吸を続けてくれるだけでいい。
ただただ、心臓の拍動を続けてくれるだけでいい。
冷たくなった手や足に触れ、必死にさすり、願い、想い、言葉をかける人たちに純粋な生命への願いを見ます。
大切な人の命への願いと感謝を当たり前に生きていると思っている間に、出来る限り伝えていきたいと思います。
あなたが今日も生きていてくれることが本当に嬉しい
あなたは私にとって大切な人だ
あなたは私にとってかけがえのない人だ
言葉でも、身体でも、まなざしでも、生き方でも伝えていきたい。
生まれてくれてありがとう
私と出会ってくれてありがとう。
ともに今を息しよう。
ともに今をいきよう。