母さんは私に 祈りの意味を教えてくれたと思う。
わたしの母は、カトリックの家に生まれ、小さいころに洗礼を受けたカトリック教徒で、若いころにはシスターになるために修道院に入っていた時期がある。
その後、身体を壊し、修道院は出たのだけれど、母さんの中にキリスト教はずっと根付いている。

一方私の父は、大の宗教嫌いで、結婚後、母の信仰を許さなかった。
父は面と向かって母の信仰を罵倒したし、母は父の機嫌がわるくなるからと、十字架や祖父母の写真を父の目に触れないように引き出しの中にしまっていた。
だから私が小さいころ、母が教会に行っている姿をほとんど見なかったのだけれど、そういえば時折(それはたぶん母が迷いの中にいたり、悩みの中にいるとき)お世話になったシスターや神父様に会いに行っていたな、と最近思い出した。
小さい私がくっついていくと、いつも必ず、母が私への祝福を頼んでくれる。
そして神父様が私のおでこのところに手をあてて、祝福してくれる。
そんな母が、父に遠慮することなく深い信仰に戻った時期がある。
それは、兄が亡くなった後。
毎週日曜日には、結婚してからずっと行かなかった教会に戻り、ミサにあずかるようになった。

そんな母についていって、私もよく一緒にミサにあずかった。
ミサは、(当時の私には)言わなきゃいけない言葉や立ったり座ったりが忙しすぎて、わたしが信徒になりたいと思うことはなかったのだけれど、祈りの場の雰囲気が好きで、弱った心をそのまま差し出せるような教会の空気の中で、よく兄を想って泣いていた。
隣に座る母さんは、ミサの儀式的なことがすべて身体に入っていて、祈りの中にいる母さんの姿は美しかった。聖体拝領のときにはいつもわたしにも祝福を頼んでくれる。(私は洗礼を受けていないから聖体拝領はうけられない)
今、やっとわかる。母さんから私がうけとったこと。
それは母さんの深い愛と祈りだった。
わたしは祈られていた。自覚せずに母の祈りを受け取ってきた。
表現方法が気に入らないと何度も何度も抵抗したけれど、やっぱり私は母さんの深い愛と祈りを受け取っていたのだ。
そしてその祈りを受け取ったからこそ、私の中にもまた、祈りが育まれているのだと思う。

私にとって祈りとは
誰かに 何かを叶えてもらおうとすることじゃない。
エゴに持っていかれそうになる、 自動操縦になりそうな自分自身に気づき 、魂の願いを 繰り返し、繰り返し、思い出すこと。
その意志の表れ。
選び続ける力。
自分がどう生きたいか、 どう在りたいかを思い出すこと。
マザー・テレサも キング牧師も 人間だった。
だからこそ 恐れや不安、
誰かに任せたい気持ち、
優位に立ちたい思い
あるいは 小さくありたい、 目立ちたくないというような
とても人間的なものも 持っていたはずだと思う。
それでも そこに引っ張られた場所から 行動するのではなく、 自分自身のこの肉体を 大いなる意志 魂のままに使ってください と、祈った。
祈りは限りなく人間でありながら そのことを知った人の 【声の響き】なのだと思う。
人間は 弱さを持つ。
人間は揺れ動く。
それでも、 【どう在りたいか】を 意志の力で 思い出すことができる。
大きなものに委ねよう。
魂の意志を 言葉にしよう。
祈りによって 魂の声を 何度でも、何度でも、呼び起こそう。
この体を使い 日々を意識的に生き、魂の本当の願いを叶えるために。



