昨日、父さんとゆっくり会った。
先週転んで肋骨を折ってから、
父さんの身体はますます小さくなり、
身の回りのことが、以前のようにはこなせない。
父さんがレギンスに足を通すのを手伝いながら、
時間は永遠ではなくて、
別れの時がくるのも、おそらくそう遠い未来じゃないんだろうと、
いつもどこかに、悲しい予感がある。
最近、両親の老いを身近に感じているからか、
「ターミナル」と呼ばれるような患者さんたちとの時間や、
その関わりを思い出すことが増えた。
患者さんたちから教えてもらったこと、
考えたことは、数えきれないほどある。
濃厚な関わりの時間の中で、
私は何度もEBMについて考えていたなぁ、と、
ふと思い出した。

EBM:エビデンス・ベイスド・メディスン
根拠に基づいた医療
EBN:エビデンス・ベイスド・ナーシング
根拠に基づいた看護
27歳で看護学校に入学してから、
教育の中でずっと「根拠」を聞かれ続けてきた。
信頼に足る、能力の高い医療者は常に冷静で、
研究結果に基づいた治療や看護を選択する。
そう学んだように思う。
一方で、
毎日の患者さんや産婦さんとの関わりの中で、
目の前の「一人の人」を見るとき、
再現性がない、数値化できないものが、
山ほどあるように思えた。
たとえエビデンスがあったとしても、
結果を完全に予測することなど不可能だ。
むしろ、予測できないことの方が多い。
治療は、薬剤だけではないと知ったし
お産の進行だって、そうだ。
ことば、感情、空間、まなざし、触れ方、息づかい。
その人の持っている、
生命力としか言いようのないエネルギーや、人と人との間に生まれる関係性。
それらすべてが、
複雑に絡み合いながら、
人は病に向き合い、治癒したり、亡くなったり、
あるいは、生まれ、成長していく。
けれど、今の医療の中では、
感情のような不確かで、測定不可能なものは軽く扱われ、
より優位で、信頼しうる指標として、
プロトコールやガイドライン、数字がある。
もちろんそれらは、
現代の医療者には絶対に必要な知識で、
外してはいけない視点だと思う。
だけど、
医療者こそ、その知識の土台の上に立ちながら、
もっと豊かで、もっと多様で、
唯一無二の、個々の「いのち」そのものに
向き合えるのではないだろうか。
その再現性のない、ひとりひとりの「いのち」に向き合うことから、
豊かな産み方、生まれ方、死にかたが見えてくるんじゃないだろうか。
答えがない問いを、答えがないままに置いておくこと。
辿るべき道がない不確かさの中に、とどまること。
今、私が向き合っていること。
思考が流れるままに、言葉にしてみている。
~私の祈り~
父さんが父さんの命を最期まで、全うできますように。
わたしが父さんの力強い命から受け取っていることを、つないでいくことができますように。

2025年10月 父さんと次女の誕生日会の時。
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