身体に刻まれた記憶の話
ゆうりがあんまり頻繁に強く吸うものだから、おっぱいの先には生々しい傷ができていたし、骨盤はまだぐらぐらと不安定な感じがして、思うように動けなかった。会陰切開はしていないけれど、それでも股には熱を帯びた違和感が残っている。
3キロの赤ん坊が通ってきた私の体は、開ききっている。
重力が産後の体に及ぼす悪影響は、よく分かっていたから夫にも長女にも
「産後1ヶ月は何もしない!横になって過ごす。」
と宣言し、実際にそうしていた。
痛みと戦いながらの頻回の授乳や、オムツの交換で、睡眠不足でフラフラだったし、産後ずっと続いている尿の出にくい感じもくるしかった。妊娠中からの便秘も相変わらずで、腸がストライキでも起こしている様に下剤も効かず、慢性的におなかが張っている。
ほんとに、今の私はポンコツ。
それでも腕の中にいる子はあまりにいとおしかった。
2週間前まで、私のお腹を内側からなでていたこの手、この足。
完璧な平和、調和の中にいたであろうに、この世界にやってきたその瞬間からもう生きていくことは始まっていく。
彼女は精一杯に喉を震わせて、世界に向かって不快感を訴える。
楽じゃないよね。
私は子宮の世界に思いをはせながら、それでも、こちら世界も悪くないと、彼女に全身で伝えている。
ほら、抱っこは温かいでしょ。
うんちがでるとすっきりするね。
清潔なオムツはきもちいいね。
お腹が満たされるととても幸せね。
☆
彼女を生んでいるとき、頭が出たところでミャーと細く、泣き声が聞こえた。
部屋中が温かい笑い声で、包まれた。
ぼーっとする意識の中で、気が早い子だと思った。
焼かれるように痛む乳首を含ませながら、私はゆうりが生まれたその時を、をうっとりと思い出す。
痛みとともに私の体が開いていき、ゆうりが、ゆっくりゆっくりと降りてくる。
強い波、弱い波、寄せては返す。もう抗えないのだから、波に乗るしかないのだ。
いや、乗るというより、私自身が波になる。
自分の身体的な感覚以外は輪郭がひどくぼんやりとしているのに、モニタリングしている、ゆうりの心音だけはとてもはっきりと聞こえた。
駆けつけてくれた助産師仲間、助産院の先生の話し声がする。随分楽しそうだけれど、何を話しているんだろう。
長女は大丈夫だろうか、陣痛の合間に見上げると、緊張した面持ちで私を見つめている。
微笑みかけると幾分安心した様に微笑み返した。何か声をかけてあげたいけれど言葉にならない。
代わりに手を伸ばして長女の頬にふれた。
夫が私の呼吸に合わせて肩を静かにたたいてくれている。あぐらをかいた彼に、もたれかかるようにして、どれくらい時間がたっただろう。しびれていないだろうか、ちょっと心配になる。
汗で顔に張り付いた前髪がわずらわしいな、と思っていると、どこからか手がのびてきてそっと汗を拭いてくれた。
テレパシーみたいだ。
次の波がくる。
会陰が、焼け付くように熱くなる。
ゆうりの頭がすぐそこにある。
お願いだから、もう出して。
先生はわたしの身体を傷つけないように、とにかくいきまないように言う。
「吐いて、吐いて、ハーハーハーハーハー…」
必死に吐く息の合間で
「熱い!」
と叫ぶのがやっとだった。
長女が団扇で私を必死で扇ぐ。
顔見知りの助産師さんが、そんな長女をみて笑いながら
「熱いね、今挟まってるからね。もうすぐだよ」
と声をかけてくれるけれど、頷くことすらできない。
その場の全員が、私にハーハーと呼吸を誘導する。
私は必死にその後を追う。
「あら~、かわいい。最初に握手しちゃったわ」
顔の横に手を添えて出てきたゆうりは助産師さんと握手したのだそう。そしてミャ~と泣いた。
頭が出ると急に楽になる。
頭が出てから、次の陣痛を待つなんて、その頃勤めていた病院では皆無だったけれど、先生は頭だけ出た状態で、のんびり次の陣痛を待っていた。長女は興味深そうに覗き込んでいる。
もう泣いたのだから、元気なんだろうけれど、いつ生まれるんだろうとそろそろ不安になってきた頃、次の波がきてぬるっと肩が出たのが分かった。次の記憶の中ではもう、ゆうりは、私の胸の上にいる。
夫を見上げると、本当に嬉しそうに笑ってた。長女は大きい目をさらに大きく見開いていた。
続く